«坐法瞑想»
Q: 瞑想って本当に、効果あるのですか?瞑想する意味を教えてください。
A: 個人的な見解に過ぎませんが、瞑想を続けていけるのは、穏やかさの中で宇宙との一体感に包まれるからです。何も求めず、ただ、ここに座っている自分。光の中で、命の流れの意味が次第に見えてきます。集中力が高まる一方、自分というこだわりが消え、心が安定してくるため、感情に振り回される事がなくなります。
Contents
瞑想のやり方
確かに、当初、坐法瞑想は辛いかもしれません。
雑念云々、それ以前の問題として、結跏趺坐や半跏趺坐はキツイ。それなら、椅子に、浅く腰かけて、瞑想をなさればいいのです。怪我や病の回復期なら、ベッドの中で横になったまま、瞑想なさればいい。
意識を集中する意図があればいいのです。
立っていようが、横になっていようが、全く問題なく、第一、瞑想は坐法瞑想に限るものではありません。
まずは、シャワー瞑想と、マインドフルイーティング。そして、動きのある瞑想(=ヨーガのアーサナ)から始め、心を今に集中することに馴染めば、楽に、坐法瞑想に入ってゆけます。
アーサナを続けるうちに、心地よく長時間、座れる体に変わり、坐法も安定します。
座法についてご説明します
どの様な姿勢でも瞑想はできますが、蓮華座で心地よく、長時間座っていられる様になると、瞑想が、無理なく、日々の生活習慣の一つになります。
動画でご説明いたします。
瞑想は感情マネジメント最強のツール
人生は常に移り変わってゆきます。
親しんできたものが一つ一つ消滅し、愛する人が、一人一人去ってゆく。変化に抵抗すると、苦しみが生じます。人生に失望することもあります。
変化は必然なのですから・・・
変化に動じない生き方を見出す必要がありますね。瞑想はそのためのツール、そして感情マネジメント最強のツールとなります。認知力、個々人の非常に限られた人生経験に基づく判断や思考で、いくら考えて続けても、変化をストップさせる答えなどありません。抵抗すれば、苦しみが増すばかりです。
瞑想で得る穏やかさは、面倒なことなどなく
・内なる穏やかさを得て
・生かされている自分に気づき
・すべては一つであることを識る
内なる仏性・神・光・静粛・真我
内なる力に出会う事ができるのです。
自分に向き合う自分時間
瞑想で、穏やかさを得るために不可欠な自分時間。
外部の雑音から離れ、魂の穏やかさを得る時間を創る意図。外部の雑音をシャットアウトし
自分に向かう自分時間を習慣化する意図。内なる自分に向き合う覚悟が必要です。
SNSや、外部の声に意識が向いているうちは、内なる静けさを見出す事はできません。本を読んだり、YouTubeを見たり、講演を聞いたりしても、決して得る事ができない空間・・
瞑想の効果をご自身で体験するには、日々の修習がどうしても必要なのです。
5分間瞑想から始めよう
日々、5分間で良いので、坐法瞑想をはじめてみませんか?
床に座る事が苦痛なら、椅子をお使いください(背もたれは使わず、椅子に浅く腰掛ける)。 仙骨を立て、背骨を真っ直ぐに。顎・首肩の力を抜いて静かに、坐ります。
人生を上手く管理し、日々、坐す!
拘りが消え、
変化を恐れない・・
悲しい死別さえ、
年老いた体を脱ぎ捨て
軽やかに宇宙に帰ってゆく・・
日々、坐す。
この習慣の積み重ねで、次第に
そう捉えられる様になります。
忙しいからできない。これは、勿体ない事です。仕事や家族やデジタルから離れて、毎日、僅か5分でも10分でも、一人、静かに坐す。
是非、ご自身の人生を上手く管理して、内なる本来の自分と向き合う自分時間をお創りになり、こころ穏やかにお過ごしください。
あなたご自身の体験が心を育てる
Patanjali編纂のヨーガの教典 yoga sutras に記述される瞑想
・Dharana(ダーラナ)
・Dhyana (ディアーナ)
・Samadhi(サマディ)
瞑想をする意味を、認知力で理解しようとしても無理です。
理解するには、ご自身の日々の修習で、実際に体験するしか方法はありません。
紀元前2世紀、Patanjaliが編纂したヨーガの経典「ヨーガスートラ」に記載されている瞑想の三段階。経験に基づいて簡単にまとめてみますね。参考になさってください。
Dharana(ダーラナ)
一点集中瞑想です。
ダーラナでは、何も求めず、ただ、ここに座り、
特定の場所や対象に意識を集中する。例えば
- ここに座り、息をしている自分を見つめる
- 呼吸の流れに意識を集中する
- 眉間に心を集中する
- ロウソクの火を見つめる
- 数息観で十まで数える
- マントラを唱える
集中する対象は善性のものであれば、なんでも良いといいます。瞑想を始めたばかりの頃は、どうしても雑念が止まりません。
心は過去に飛び、未来に飛び、気づいては今、ここに引き戻す。心が離れたら、気づいて、意識を特定の場所や、対象に引き戻す。
湧いてきた思考の内容や感情を批判する必要はなく、ただ、気づいて眺め、意識を特定の場所や対象に引き戻す。この繰り返しを続けるうちに雑念は消え、次第に、雑念が出ない様になります。心はしつけることができるのです。
Dhyana(ディアーナ)
日々、何も求める事なく、ダーラナを5分でも10分でも、継続してゆくと、瞑想状態はより深まり、次第に心は安定した状態に達します。
あなたの意識は静かな宇宙空間に広がり、本紫の光に包まれたおだやかさの中でこの上ない至福感に満たされ、呼吸は、あるかないか分からぬ程、静かになり、自分では、ほとんど呼吸を感じません。
穏やかで心地良い空間、時間を超越した空間が ディアーナ
- 内なる神と出会う
- Stillnessに出会う
- 宇宙エネルギーと一体になる
- 真我に出会う
- 内なる仏性に出会う
様々な修習法や、宗教が、それぞれの言語や表現を用いて、同じことを表現しています。
そして、経典では・・
ダーラナとディアーナは努力により会得できますが、サマディは宇宙の(神の)恩寵として
不意に到来すると言います。
Samadhi(サマディ)
ディアーナの不動になった心境でも、そこには、意識の影が残っています。その意識の影がひとかけらも残っていない境地がサマディです。
道元禅師は、普勧坐禅儀にこの様に表現していらっしゃいます。
念起らば即ち覚せよ
之を覚せ即ち失す
久々に縁を念じ
自ずから一片とならん
「坐して雑念が生じたら
雑念が生じたことに気づきなさい。
気づいて手放す事で
思考に引きずられることなく
雑念は消滅する。
坐禅を繰り返すうちに
主客が一体となる。」
正しくサマディの境地の表現ではないか。と、解釈しています。
まとめ
心を育てられるのは、あなたご自身の実体験だけ。充足感、生きる幸せを感じ、心おだやかに人生を歩む。そのために瞑想が必要なのです。
瞑想が深まるにつれ、光に包まれた穏やかな空間。そこに身を置く至福感に満たされます。
分析瞑想について興味ある方はこちらの記事をご参照ください。