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分析瞑想について
ご質問いただきました分析的瞑想法、説明させていただきます。
瞑想には大きく分けて、一点集中の瞑想(止)と分析的な瞑想(観)があります。
真の心の平静さを得るためには、一点集中瞑想が大切ですが、これに加え、自らの心の欠点を知り、対処法を施すための分析的瞑想が必要となります。これは、理由を問う瞑想法です。
「分析瞑想する事により、事物には本質的に実体がないという空について、理解を促すことも可能である」と、ダライ・ラマ法王様は法話の中で、良く、説いていらっしゃいます。
例えば、なぜ、人を分別するのかについて瞑想する
生きるための対処法として、敵と味方を分けて、自分を大切にしてくれる人々を親しく扱い、利害関係が相反したり、自分にとって不都合な人たちには敵愾心を抱いて距離をおく。或いは、言動で攻撃する。自分にとってあまり役に立たない人々や関係ない人たちは、何となく、無視してしまいがち。なのではないでしょうか?
そこで、この分別の理由を、瞑想を通して探してみてください。
敵とみなす相手が、本質的に変わる事なくずっと敵であり続けるのか、味方とみなす相手が、本質的に未来永劫、味方なのでしょうか?
- 苦手な上司が、実は自分を見込んで厳しいアドヴァイスをしていた事を知り、味方に分別し変えたり
- 逆に、味方と思いこんで信頼していた友に裏切られ、敵に分別変えする事もあります。
- 離れ難い愛しい恋人が、いつの間にか、鬱陶しくて我慢できない存在になり
- 嫌いな人が、いつの間にかかけがえのない大切な人に変わる事もあります。
- 今、自分の役に立たない等と考えて、軽んじていた相手でも、将来、有益な相手になることも十分にあり得ます。
こうして、よく考えてみると、人々を分別する意義や理由はなさそうです。
第一、自分にとって、有益かどうかなどという尺度。この思い上がりはどこからきているのでしょうか?
この様な分別の源は、自分を守るための”私”への執着心です。ご縁があって知り合った方々、あなたや私と同様に、誰もが、幸せを求め、苦しみを避けたいと願っているのですから、危害を与えることなく、動植物を含め、命あるもの全てを大切にしたいものです。
無常について思い起こす瞑想
この分析瞑想はとても大切です。
- 37兆個と言われる体の細胞は、死んでは生まれ変わり、私たちの生を維持し、活動を可能にしてくれています。私の所有物、自分の体と思っているこの物質は、常時、生まれ変わり、齢を重ね、変化しています。自らの意図で独立自存している訳ではありません。
- 死は、誰にも、いつ、どの様にやって来るのかもわからない。
- お金が欲しい、名声が欲しい・・。でも、あれほど、欲しかった名声も、お金も、財産も、宝石も、折角、手に入れたのに、死ぬ時には、持ってゆくことはできません。
- 執着すること自体が無意味に思えてきます・・
今世に対する執着、金銭欲・物欲、愛欲への執着が強い場合には、死はいつやって来るかわからないという無常に瞑想なさってください。次第に執着すること自体、無意味であると感じる様になります。
空の見解の意味に集中した瞑想
ナーガールジュナ『根本中論頌』の22章1偈、ダライ・ラマ法王様は、この偈の「如来」を「私」と自分に置き換えて、しばしば、熟考している。と法話でおっしゃっています。
私は五蘊ではなく、五蘊と別のものでもない。
私のうちに五蘊があるのではなく
私が五蘊を所有しているのでもない
では、私とはいかなるものであろうか
五蘊とは、色蘊(物質体存在)・受蘊(感受作用)・想蘊(識別作用)・行蘊(意志作用と形成力)・識蘊(認識作用)、意識全般のことであり、眼・耳・鼻・舌・身の五つの感覚器官を通して生じる5つの「感覚的な意識」。「純粋な意識」第六感を加え六識。 引用元:ナーガールジュナ『菩提心の解説』ダライ・ラマ著 、 マリア・リンチェン訳
- 心に現れ認識するもの全ては、その現われの様には存在していない。
- 物質は、因により生じ、名前を与えられ、世俗的には確かに機能はしていても、因果の観点から見ると、本質的に独立した固有の実体として、自性により生じて存在しているものは何も見つかりません。
- 自我は五蘊に依存し、私は「伊藤悦子」という名前を与えられた存在に過ぎません。他の因や条件に依存する事なく、自らの力で独立自存する実体ではないのです。
- 「私」は、実体を持って自ら生じ、存在しているかの様に、見えているに過ぎません。
- 五蘊とは別個に、永遠で、部分を持たず、単一で、他に依存せず、自在なる力を持つ、それ自体の側から実体をもって成立している自我など存在しない。
この空の見解の意味に集中し、瞑想してゆきます。
- 私たちが誤って自己の存在を捉えていることが、すべての問題の因となっている様だ。
- その結果、利己的な態度が助長され、自分さえ、身内さえよければいい。そう考え、他者への配慮が乏しくなっている。
- 自分も他の人々も、動物も植物も全て、みんな同じ。苦しみを避けて、幸せを手に入れる事を望んでいる。
- 動植物を含め、危害を与えることなく、命あるもの全てを大切にしたい。と気づきます。
「私」だと思っているものは、体と意識の集合体である五蘊の上に、たとえば「伊藤悦子」という名前を与えられた存在に過ぎず、他の因や条件に依存せずに、「私」自体の力で独立して存在している実体ではありません。
これ程、拘ってきた自我が、単なる名前を与えられただけの存在に過ぎないと結論づけることができるのではないでしょうか?
他者や他の生きものに危害を加えてはならないという気づきに加え、執着や怒りで自己をがんじがらめにし、五蘊を所有していると思い上がっていた自己は否定対象となり、私を支えてくれている体や心を労わり、危害を加えてはならない。その様な結論に達する様に思えます。
座法についてご説明します
どの様な姿勢でも瞑想はできますが、蓮華座で心地よく、長時間座っていられる様になると、瞑想が、無理なく、日々の生活習慣の一つになります。
動画でご説明いたします。
日々の積み重ねが必要
瞑想を行ない、終わったら最後、瞑想中のことはすっかり忘れてしまう。これはもったいないことです。瞑想によって得た力を、意識の片隅に残して活用してゆけば、きっと、日々の生活を、もっと、もっと、望ましい形で過ごせる様になるのではないでしょうか。
多くの方々同様、私も、安倍晋三元総理大臣のお人柄が大好きでした。政治家として、日本国を、日本国民の安全を守るための明確な論理展開と行動に加え、日頃の立ち居振る舞いには、高貴な魂と道徳観、品性の高さが、折につけ、感じられたからです。
人生で起きることは、すべてに深い意味がある。どの様な状況にあっても必ず、乗り越える事ができる。そう確信して、生かされている限り、日々、少しでも進化をし、魂の喜ぶ体験を積みながら笑顔で過ごしたいものです。